代表 大泉敦史
代表の大泉敦史(おおいずみあつし)です。
1972年(昭和47年)、水戸市生まれ、水戸市(旧内原町)育ち。
乱暴者だった幼少期
生まれた年に、ウルトラマンエースのテレビ放送が始まり、ウルトラマンタロウ・ウルトラマンレオのウルトラマンシリーズが大好きだった幼少期。
敵の怪獣を食いちぎるぐらいの乱暴者でした。
住まいは、水戸市河和田(かわわだ)団地の5階。階段の昇り降りの速さはピカイチで、運動神経だけは良い子に育っていきました。
ウ〇コをもらした小学校時代
小学校は、地元の河和田(かわわだ)小学校へ。「あゆみ」の総合所見には、先生方から毎回、次のようなコメントをいただいておりました。
「生活態度にけじめがなく、自己中心的な行動がめだちました」と。
夏休みの宿題は、テキトーで、絵の宿題を母親に書かせて銅賞受賞…
絵日記は、まとめて書くので、記憶があいまい…なので天気は晴れか雨
書初めの宿題で「あゆみ」に墨汁をこぼして、先生にこっぴどく叱られる…
団地の5階から、地上めがけておし〇こをして他人を困らせる…など
まさに「生活態度にけじめがなく、自己中心的な行動がめだちました」
そんなヤンチャ少年にも、転機が…。
父が、夢だったマイホームを建て、小学4年になる時に、内原町の妻里(つまさと)小学校へ転校。
自宅から小学校まで、子供の足で片道40分。
田舎の田んぼ道をひたすら歩くので、我慢できずに途中でウ〇コをもらすことも…。
(当時は、学校のトイレでウ〇コをするのが恥ずかしかった)
今では、その田んぼ道がイオン水戸内原ショッピングモールに様変わり(笑)
転校当初は、いじめられたり、からかわれたり…。しかし、運動神経(かけっこ)が良かったことで、すぐに皆に受け入れられる。
小学校6年の時に、大ヒットした「スクール☆ウォーズ」
山下真司(やましたしんじ)さん主演のラグビーを題材とした熱血教師の物語。
「スクール☆ウォーズ」は令和時代の今風で言うと「パワハラだらけの熱い物語!」
「イソップ〜」
当時は感動!感動!感動! 毎回放送を楽しみにしていました。
そして「スクール☆ウォーズ」の放送終了とともに、妻里小学校を卒業。
モテない中学時代
自宅から自転車で5分の内原中学校へ進学。
自転車は必ずヘルメット着用で、男子は3年間全員坊主頭!
「こんな坊主頭じゃ、ゼッタイモテねえ~」と思いながら過ごした3年間。
モテたい一心で、高校の進路選択をする時に、
「制服がブレザー」=当時は珍しかった
「男女共学」=これしか、考えられなかった
という不ジュンな動機で、水戸市内の茨城県立水戸桜ノ牧高校を受験して無事合格。
奇跡が起こった高校時代
そんな不ジュンな動機だけで、目標達成(合格)するとその後どうなるか?
高校に入学することだけが目標だったので、その後はほとんど勉強せず。
高校2年生の時に、5段階評価で人生初の1を受賞。
412人中300番台後半の成績を常にキープするという、我ながら見事な腕前。
その先の進学のことなど、到底考えられない高校2年生。
しかし…。
高校1年生の時に始めたフェンシングで奇跡が起こる。
高校3年の県大会予選・団体決勝。勝田工業高校との接戦を、1点差で勝ち抜き茨城でいちばんとなり、宮城県開催の高校総体(インターハイ)へ出場。
当時の茨城県団体予選参加校はなんと3校!…超激戦でした。
これがきっかけとなりスポーツ推薦で大学へ。
箱根駅伝・大根踊りでおなじみの東京農大醸造学科へ進学することに…。
さまざま専攻学科がある中で、醸造学科を選択したのは、日本でココしかない専攻であることと「造った酒をしこたま飲めるだろう!」と思ったから。
この進路選択でも、悪いくせ?の動機不ジュンが復活!
勝負師に徹した大学時代
大学では白衣に身を包み、研究室で菌の培養をした後の、試験管を洗う
お掃除係を担当。試験管掃除の職人と呼ばれたものの、全然嬉しくなく、
研究者として全く不向きであることを自覚。
ここでマイスターの夢はあきらめ、飲む方だけに転向!
一方、スポーツ推薦のフェンシングは順調そのもので、3年生の時に主将に抜擢され、
強いチーム(組織)作りを任される。
当時、関東の大学フェンシングチーム戦は男子は1部リーグから5部リーグまであり、1部リーグにつき6校が所属。(約30大学で競い合う)主将就任前の東京農大は、2部リーグのチーム戦で中位から下位をウロウロしていることが多く、個人戦でもベスト◯位に入賞する選手は、ほんのわずか。
ここで、豚もおだてりゃ木に登るという言葉がピタリ当てはまったのが、大泉を主将に抜擢した監督の人事。
北は北海道、南は九州に至るまで全国から集まって来たワガママな選手たちのやる気に火をつけるため
「絶対に1部リーグへ昇格するぞ!」と熱く語りかけていた。
各選手の長所を引き出すために
「どのようなコミュニケーションを取ったら良いのか?」
ということを常に考えていた。
そんな選手たちとのコミュニケーションを取るのに最も役に立った???のが
パチンコ&パチスロ
ほぼ毎日、朝10時の開店(モーニング)に皆で並んで打ちに…。
開店から並んでいた理由は、当時パチスロのモーニング設定というのがあって、1回転目で大当たりが出るパチスロ台があったから。特にニューパルサーという台に目をつけていた。この当たり台をいち早く取るために、フェンシング部と名門相撲部が、火花を散らしていた。角界に進み、時津風部屋の親方までのぼりつめたあの方とパチスロ台を取るときに競い合っていたことが、今は、なつかしい。さらに…アレパチのアレジンとエキサイトというパチンコ台もモーニングらしきものがあって、スロットが当たらなかったら、アレパチへ移動みたいな軽快な流れもやっていた。実は、そんなやり方で負けまくっていたので、父に送ってもらった仕送り月13万円。これをたった数日で使い果たしてしまい、カップラーメンでしのぐものの、さらに困った時には、臨時の仕送りを送ってもらうことも…。
当時、父は個人事業で、家具卸売業を営んでいた。家具(座卓)を運ぶのに、肉体を酷使していたため、特に腰痛が酷かったらしい。
その父が、汗水たらしながら稼いだお金をドブに捨てていた親不孝者。現在は、自分がやりたいようにさせてくれた両親(健在)に、できる限りの罪滅ぼしをしております(泣)
結局、パチンコ&パチスロでは、大学4年間で全く勝負にならず大負け!
本業のフェンシングでは、主将に抜擢されてから数ヶ月…。
ワガママ選手たちの実力が開花し始めた!
自分自身も主将として、大会上位を狙えるぐらいの腕前まで達していたので、この勢いに乗って、アメリカ遠征に行くなど、海外にも積極的に進出!
1部リーグの名門大学との試合でも、互角に渡り合い飛ぶ鳥を落とす勢いだったのですが…。ほんのわずかのところで、1部リーグ昇格を逃してしまう。
ここで、主将の役目を終え、無事卒業!
(卒業から2年で、チームは1部リーグへ昇格。世界選手権に日本代表として選ばれる選手を何人も輩出する名門大学へと生まれ変わったのでした。めでたし、めでたし)
卒業後の自分はめでたくなかった!?
卒業したのは、平成7年。世の中はバブル崩壊後の就職氷河期で、地元茨城で就職活動するも、見事に全敗!
フェンシングとパチンコ以外のことを何も考えていなかった自分の甘さを痛感!
高校時代の恩師にお願いして、水戸市内の建設会社(ゼネコン)に無事就職が決まるも、半年足らずで自己都合退職。恩師から「お前の顔は見たくない!」と怒られ傷心状態に…。そのまま世間様から少々はずれて、ニートの道へ。
ニートの間は、たくさん時間があったので、勝負師復活!でしたが、働いていないという負い目もあり、近所の目が気になるので、玄関からダッシュで車に乗って、パチ屋に出かける日々。
結局、半年間働いた給与(金)が尽きるまで、パチ屋に入りびたり。
国家資格との出会い
その後、お金も尽きてきたので、
水戸市内のハローワークに職探しに出かけたところ、土日祭日完全週休2日制残業ほぼ無しという水戸市内の司法書士事務所を見つけ、運良く採用される。
土日祭日休み、残業ほぼ無しなので、仕事以外は相変わらずパチンコにゾッコン。
当時、綱取(つなとり)物語のノコッタノコッタリーチにハマっていた。
それでも、せっかく事務所に入所したのだから何か資格は取った方が良いと思い、宅地建物取引主任者(現在は、宅地建物取引士)試験を受験し、2回目で合格。
司法書士試験は1回だけ受験したものの、難関すぎて自分の能力では、到底無理だと確信!
司法書士は無理だけど、何か他に独立できる資格はないか?と探していたところ…
あった!あった!ありました! 社会保険労務士♡♡♡
合格率と将来性が決め手となり受験を決意。
そして、運良く2回の受験で合格。
試験合格後、独立に向けて準備を始めたところ、周囲から独立して生計を立てていくのは無理でしょ。そんな資格じゃ食えね~から「やめとけ!」という反対意見が多数。まあ~分が悪い。
しかし、もしものときは、得意技の転向があるので、えいや~!と独立開業に踏み切る。
自己資金がほぼゼロだったので、国民生活金融公庫から全力で300万円の融資を受けて、マイナススタート。
この時点で、ギャンブルとは一切縁を切る!
開業直後は、予想通りの閑古鳥。
とても暇だったので、それまで連続5回失敗し、全くかすりもしなかった行政書士試験勉強に集中する。
受験地を地元茨城県ではなく、高知県で受験。
高知県で受験した理由は、国体(国民体育大会)選手として、フェンシングの試合に出場することが決まっていたため。
何十年か前のカレーのコマーシャルみたいに「試合もいいけど試験もね!」という、なんとも欲張りなプラン。
国体茨城県代表として、これまで4回選ばれましたが、高知を最後に国体引退と決めていました。その時の年齢29歳。
そして、この国体欲張りプランのおかげなのか6回目の挑戦で奇跡的に行政書士合格。実は、国体欲張りプランのおかげなんかではなく、この年の行政書士試験の合格率が、史上最高値19%台と近年まれにみる試験制度に助けられただけ。「まあ、そうだわな~。俺の頭では…」
詳細は、ホワイト企業®︎のスタッフはこんな資格を持っています!へ。
それから、ソコソコ順調に業績が推移したものの、開業5年を過ぎたあたりから、いま一つ事務所の方向性に悩む。
そんな時に、偶然出会ったのが、社会保険労務士の師匠となる
北見昌朗(きたみまさお)先生。
北見先生は「中小企業には中小企業にあった賃金の管理がある」こう明言し、独自の調査研究により、中小企業の発展に寄与する、実践的な給与制度の提案を続けている日本でも指折りの社会保険労務士。
師匠と出会ったその後は…
北見先生と出会い、全国各地で活躍している北見先生の門下生(北見塾)と交流を持てたおかげで、自分の得意分野に目覚める。
コテコテの体育会系出身者として、人は単なる理論や理屈だけでは、動かないということを身をもって経験しているので、その経験を活かし、顧問先経営者の皆様に対して
「経営」「法律」「人の気持ち」
3つの視点に配慮した提案を行っている。
ホワイト企業社会保険労務士事務所で毎月発行しているコラム「ホワイト企業の労務・義理人情プラス」は、経営者の皆様から
「この視点良いわ〜。経営者が従業員を雇う苦労が分かっているんだわ〜」
「この記事に書いてあること、実践しているよ~」
とお褒めの言葉をいただいております。皆様、ありがとうございます(左の画像をクリックすると、PDF版をご覧いただけます)
一方、プライベートでは…。
50歳をすぎてもっとも気になるのが
「お・さ・け」
お酒を造る勉強をしていたものの、途中から飲む方へ転向したので、
酒造りのことを聞かれても、サッパリ分からない。
晩酌は、ほぼ毎日かかさず。主なつまみは、豆腐とニラ、ネギ。
そして…
超辛口の純米酒を好む。
テレビは偏向すぎて見ませんが、そんな中でも唯一楽しみにしているのが、NHKの朝ドラ。
何年か前に放映していた「マッサン」の影響を受け、ウイスキーも飲み始めるが、
健康診断の結果、肝臓の数値が気になりだしたので、濃いめはやめて、
薄めのハイボールで飲むように心がけている。
酔っ払うと熱く語るがかなりしつこいらしく、
飲みに連れて行って下さった顧問先企業の社長を叱ったこともあるらしい???
飲んで語った翌日は、反省!反省!反省!
記憶を失うことがあるため、社長と飲みに行った翌朝はまずは、お詫びの電話対応から…。
健康への配慮から温泉巡りで、心身を整えることが趣味となり、さらに
「温泉ソムリエ」の資格を取得。
フェンシングで、茨城でいちばんとなったものの全国制覇が出来なかったので、温泉巡りで全国制覇をめざしている。
経営者にピッタリ合った用心棒?
昭和…平成…令和時代に移り変わって…。
今までの労務のやり方に「何かまずい!」と感じている経営者の皆様。
その「心のザワザワ感」は、とても重要なシグナルかも?
そんなザワザワ感を安心感に変えてくれる用心棒がそばにいてくれると…
心強いですよね。
ホワイト企業社会保険労務士事務所は、茨城でいちばん鉄壁の剣さばきをする用心棒です!
ちなみに…得意技は、相手の心を突き刺すコミュニケーション力(^人^)
(大泉の剣さばきの模様をYouTubeにアップしました。ご興味のある方はぜひ一度ご覧下さい)
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